第2章 縁の糸(2)
朝里は,女の事が気にかかり,そのために頭の中の大部分が占領されてしまい,ぼんやりとTVを見ていたが,ただ画面が眼の前を通過していくだけで,彼の脳には伝わらなかった。
メーカの分かった女の所持品やアクセサリは,割とはっきり記憶に残っていたが,あれほど見つめ,観察した女の顔や体の特徴は,記憶が見る見るうちに不鮮明になり,もはや,目を閉じても明瞭には思い出せなくなっていた。
なんとしも,もう一度逢いたい,そして不鮮明な記憶を正したい,朝里はそう思った。
そのとき,突然,携帯電話が鳴りだした。
誰からだろう,朝里は呟いた。今,電話を掛けてきて欲しいのはあの女である。朝里は,一瞬期待し,その期待を自制のため打ち消しながら,受話器を取った。
「もしもし」
朝里は電話口で,相手を確かめた。
「あ,朝里さん。私ですよ。分かります」
男の声であった。声の主は,まさに,先ほど由利に教えた取引先の男であった。
どうして,その男が俺に電話してきたのだろう。朝里は考えを巡らした。もう,一回戦終わって,お礼の電話だろうか。それにしては時間が早すぎる。女と一緒なのだろうか。しかし,そんな時に電話はしてこないだろう。一体,何が起こったのか。
「分かりますよ。どうしたんです。今頃,電話なんかしてきて。何かシステムに問題でも起きました?」
声の調子から,男の用件が会社の関係ではないことは,明らかだった。しかし,取りあえず朝里は探りを入れてみた。
「いや,朝里さんにちょっと聞こうかと思いましてね。今いいですか」
男は何やら楽しげで,軽い調子だった。
「ええ,いいですよ。まだ会社ですか」
朝里は調子を合わせた。
「そうです。今日は交代要員が突然休みましてね,代わりに残留ですよ。全く災難です」
男はまだ会社にいて,会社からは出られないと言う。
「聞きたい事って言うのですね,実は,先ほど女の人から電話がありましてね」
男はそう言って,経緯を話し始めた。
男の所に,女から電話があったそうである。女は色々探りを入れながら,これから楽しいひとときを過ごす気がないか,と誘ってきたという。しかし,彼は,今晩はシステムのサポートの仕事が夜間まであるため,会社を離れるわけにはいかなかったのと,女の話の内容に,今一つ得心がいかなかったので,誘いは断ったそうである。
女は結局,名前を名のらなかったそうであるが,もちろん,それは石神 由利である。朝里はそれを知っているが,男には何も情報を与えなかった。
「で,どうしたんですか」
朝里はとぼけて尋ねた。
「したらね,その女の子が,お友達を紹介して下さいって言うんですよ」
男は含み笑いをしながら言った。それで,彼は朝里を紹介したのだが,女は気に入らないらしく,もう一人紹介してくれと言うので,友人の田之倉という男を紹介したそうである。朝里は自分が友人の男を紹介し,彼が朝里を紹介したという成り行きに,笑い声を出したくなったが,ぐっと堪えた。
「でね,朝里さんの所に,その女の子から電話があったかどうか,確かめようかと思いましてね」
男は舐めるような調子で言った。
「電話ないですね。名前で振られたのかもしれないな」
朝里はとぼけて言った。
「そうですか。でも,これからあるかも知れませんよ。と言うことは,この電話,長いこと占領してたら不味いですね」
男はそう言って,女から電話があったら,好きにして構わないから,後で戦果を教えてくれなどと言った後で,慌ただしく電話を切った。
朝里は田之倉という男は知らなかった。
由利が朝里の知り合いの男の先に行ってしまったことで,縁(えにし)の線がさらに細くなり,もしかしたら切れてしまったような感じがして,急に不安になった。と同時に,由利が,その男と逢瀬を重ねることがなくてよかったとも思った。
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